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10月23日(金)
中越地震追悼現地に来て「長岡ハイブ」の次に川口町へ向かった。
川口町は子供達が小さい頃転勤で1年間暮らした町だったが、自然豊かで人情豊か
で大好きな町となった。 3才だった息子はここで虫やカエルに夢中になり、保育所
の女の先生に散々お世話になって、この先生が又素晴らしい先生で、新潟市に去った
息子の誕生日になると毎年必ず「おめでとう」のハガキをくれた。
促してもテレからか彼は返信をしなかったが、当然川口大好き人間に育った息子は、
中学の時は修学旅行土産をこの先生に届けたり、バイクに乗り始めるとしばしば川口
町に立ち寄って幼馴染に会いに行ったりした。
この先生とはmewはずっと年賀状を交わし続け、息子の近況などを知らせていた。
川口町に近い長岡市の大学に行ってから先生の住所を知らせたら、息子は殊のほか
喜び、以後息子も先生に年賀状を出すようになってそれは今も続いている。
そして中越地震で川口町の壊滅的な被害が報じられると、彼は即通行不能だらけの
道なき道を分け入って川口町に駆けつけ、以来数年間会社の休みの毎土日、横浜から
通いつめてボランティア活動をし続けたのだ。
小千谷市にいる先生にも会いに来て、仮設住宅に住まうお年寄りを新潟にバス旅行
に連れて来た時も先生を誘って同行したり、先生とは今もいい交流をしている。
仕事が超多忙で趣味多彩(mewの遺伝子かな)な彼はわが家にはまるでご無沙汰
だが、先生の話では川口町の折々のイベントには来ているそうだ。
川口町は「感謝と復興」を表わす黄色の旗一色だった。
まず役場へ行って(ここも見事な黄色の満艦飾)(写真1)追悼式典のタイムスケ
ジュールプリントを貰い、まだ山の上の運動広場でのキャンドル灯火には1時間以上
時間があったので、川口町に次いで被害の大きかった山古志へ向かった。
途中、「妙見」という地区があったので、あの土砂崩れに車ごと埋まって母と姉が
亡くなったけど、1人奇跡の生還をした男の子がいた現場だなと思い、献花台がある
とのことだったので探したが、探している途中で息子が大学時代活動していた自動車
部の部員が平成元年9/14未明、山中での悪路走行練で道沿いを流れる野辺川という
小川に転落して、水深はわずか50センチだったのに逆さまになったため頭が水没し
て×シートベルトを外せないまま亡くなった事故現場に通じる道を通りかかったので、
当時1度行ったその場所に行ってみた。
すると、そこには石碑があり「I君の思い出を永遠に。1988.9.14」と刻
まれ、後ろには「N大学自動車部。1994.9.15建立」とあった。
彼とは1度会ったことがあり、ご家族の悲しみが痛烈でお母さんは息子を偲ぶ慟哭
の本を出したほどだったので、あまりに不憫でmewは今もよく通る海岸道路沿いに
ある彼のお墓に命日になると密かに立ち寄り、花を供え冥福を祈っている。
石碑に持っていた花と紙パックのジュースを供えて拝んできた。(写真2)
山古志役場前のキャンドル群を見て、又川口町の会場の運動広場へ行った。
広い草原に大規模なキャンドル灯火があちこちに光り輝き、後方の丘の上には
「にいがたからみんなえがおに」の文字キャンドル群もあった。
息子に遭遇するかと思ったが、人の波の中で叶わぬ夢だった。
亡くなった68のみ魂よ。安らかに…。(写真3)
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